Masuk東京から来た少女……か。
診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、数年前のあの日の病室へと戻っていった。
◆
蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。
病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。
壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。
その一角に、少女が横たわっていた。
痩せすぎた肩はシーツに沈み、頬の線は鋭い。十代の半ばだろう。髪が汗で額に貼りつき、呼吸のたびにかすかに揺れる。
その瞳だけが異様に大きく、真っ直ぐに吉川を射抜いてきた。
「……生きたいです」
声は糸のように細かった。だが言葉はかすむことなく、空気を切り裂くように響いた。
吉川は頷いた。頷くしかなかった。触れた皮膚は氷のように冷たく、指先で探る脈は、ときどき抜け落ちるように消えていく。血液検査の数値も悪化の一途をたどり、数字の列が死の影を裏打ちしていた
上席医が白衣の裾を払って入ってくる。
「想定の範囲だ。経過観察。痛み止めを調整して、朝まで様子を見よう」
「検査を追加しましょう。数値が合いません」 「若いの、そうやって何でも疑っていたらキリがない。家族も不安になる」吉川は口を閉じた。舌の裏に血の味がした。
カルテに打つ文字が小さくなる。点滴速度、体温、酸素濃度、脈拍。数字は書ける。数字は感情を持たない。けれど数字は嘘もつかない。
夜明け前、少女の目が一度だけ大きく開いた。
警報音が鳴り、止む。別の音が鳴り、止む。看護師が走ってきて、吉川が呼吸を確認し、上席医が短く指示を出す。動きは意味を持っていたが、時間は意味を失っていた。
朝に間に合わなかった。
廊下のベンチで、少女の母親が両手を膝に置いたままこちらを見上げた。顔は泣き腫れているのに、声はかすれて乾いていた。
「あなたは、医者でしょうッ!」
吉川は頭を下げた。下げた姿勢のまま言葉が見つからず、背中の方から自分の呼吸の音だけが聞こえた。
その日の午後、上席医が診察室の扉を閉めた。「記録は整えておけ。判断は正しかった、そう書けるだろう」
「……時刻が合いません」 「合うようにすればいい。臨床は現場なんだ。紙の上の時間は現実とは違う」指示は短く、声は低かった。
ペンを持つと、手の甲の血管が自分のものではないみたいに浮いた。数字の端を削り、時刻を寄せ、行間に小さな言葉を足す。紙は何も抵抗しない。最後の欄に、患者の名字があった。虚木。珍しいと一瞬思い、次に進んだ。
◆
その夜、吉川は携帯を握りしめ、指先が汗ばむのを感じていた。誰かに心を打ち明けなければ、胸の奥で何かが潰れてしまう――そう思って、半ば衝動的に番号を押した。呼び出し音のあと、軽い声が返ってきた。
「よぉ、久しぶり」
数年ぶりに聞く声だった。高校時代から何かと肩を並べてきた友人。いつも飄々としていて、人の心を突く時でさえ笑っているような男。
仕事を終えた吉川は、紺のスーツ姿で街を歩く。肩口に皺が寄り、きちんと締めたネクタイがかえって息苦しさを語っている。
待ち合わせたのは繁華街の片隅の飲み屋だった。ガラス戸を引くと、油と煙草の匂いが混じり合い、カウンターの上で氷の当たる音が絶え間なく響いていた。昼夜の感覚を失った病院の白とは正反対のざわめきが、吉川の耳を覆った。
「あんまり、待たせるなよな」
カロン、と言葉と共に掲げたグラスから、氷が当たる澄んだ音が響く。
既にカウンターに腰掛けた彼は、吉川とは対照的にジャケットを椅子の背に引っかけ、シャツのボタンを二つ外したままカウンターに肘をついていた。取材帰りなのか、鞄が足元に転がり、原稿用紙の角が覗いている。飄々とした笑みを浮かべ、煙草の匂いをまとっているのに、なぜか人を安心させる男だった。
彼はカウンターの隣を吉川のために確保していたようだった。空いている席に、力なく腰掛ける。彼はグラスを指で転がしながら、吉川に片目を上げて笑みを見せた。
信用できる。愛すべき友人だ。
――もっとも、高校時代に俺の初恋をさらっていった盗人でもあるが。「そういえば引っ越したんだ。これ新しい名刺な」
「引っ越した? 彼女とは?」 「察しろよ」そうか、彼女とは別れてマンションを追い出されたんだな。
吉川は心の中で少しだけ同情する。「……やつれたな。白衣が似合わん顔になってるぞ」
吉川の顔を見た彼が真顔で呟く。
吉川は笑い返せなかった。深く座り、目の前のグラスを握りしめると、氷が小さく鳴った。「……助けられたはずの患者を、死なせた」
彼はすぐには言葉を返さなかった。グラスを揺らし、ただ聞く姿勢を示す。
吉川は言葉を止められなくなっていた。「追加検査をすべきだと口にしただけで、“若いのは黙ってろ”と押さえ込まれた。夜明け前に容態が急変した時も、上席は“想定の範囲だ”の一点張りだった。あの子は――“生きたいです”って、はっきり言ったんだ」
指先がグラスを握り締め、氷が小さく悲鳴を上げた。
「それでもカルテには“判断は正しかった”と書けと命じられた。数字を削り、時刻を寄せ、行間に言葉を足して……紙を現実に合わせるんじゃない。現実を紙に従わせたんだ」
息が荒くなっているのを自覚しながら、吉川は続けた。
「結局、責任を取らされたのは俺だった。院内政治ってやつだ。上は無傷で、俺だけが外に弾き出された」
友人は煙を吐き、細い目で吉川を見た。
「で、なんて名前だったんだ、その子」吉川はしばらく黙っていた。氷の解ける音だけが二人の間に落ちていた。
「……」
「お前だけは、その名前を覚えていろ。絶対に忘れちゃいけないだろ」
「ああ……わかってる。虚木……虚木真弓さん、だ。まだ高校生だった」
「虚木、変わった名字だな」
友人の声には淡い響きがあった。軽口のようでいて、どこか確かめるような響き。
「その名字、昔俺の仕事関係で見た覚えがある。奇妙な掟を守る村が発祥の名字だった」
「……村」 「ああ、そういえば、そこは無医村だそうだ」 「医者が……いないのか」 「だな、ちなみに移住には国の支援もあるそうだぞ」 「……」 「……お前みたいな医者なら歓迎されるかもな」吉川はグラスの底を見つめた。氷が溶け、水面が揺れていた。
この街には、もう居場所がない。 助けられたはずの命を失った自分が、まだ医者でいる意味を試すなら――。決意の言葉はまだ口に出せなかった。だが胸の奥で、火種のように熱を持ちはじめていた。
吉川は壁に手をついたまま、荒い息を吐く。 診察室――陽一の遺体と、俊夫。 正気を失ったように沙織が哄笑をあげた。「あは……あはははは……俊夫さん……あなた、陽一を……」 喉がひきつり、声が掠れる。 床を掴む指先は血に滑り、赤黒い染みを広げていく。 目を逸らす。 見てはいけない。医師として、人として、見なければならないのに。 ――診察室には地獄が広がっていた。 あまりの光景に棒立ちになっていた吉川は、診療所の扉が開かれたことに気がつかなかった。 そして気がつくと、村の人々と清音がそこにいた。 千鶴が床に座り込んでいる。 顔は蒼白で、震える手で口を押さえていた。 梓は――玄関の方を見つめたまま、動けずにいる。 診療所に、重い沈黙が満ちた。 その時、清音が振り返った。 セーラー服の裾が揺れ、月明かりが彼女の横顔を照らす。 その表情は――何も映していなかった。「今日のことは、忘れなさい」 声が響いた。 優しく、穏やかで、そして――抗えない。 吉川の視界が揺れた。「……え?」 言葉が出ない。 喉が詰まる。 清音の瞳が、光った。 淡く、冷たく、月光を宿したように。 その光が――吉川の目に刺さる。 膝から、力が抜けた。 壁に手をついていたのに、支えきれない。 体が傾く。「記録……」 声が掠れる。「私が……佐藤さん……皆……」 何を言っているのか、自分でも分からなくなる。 視界がぼやける。 清音の姿が二重に見える。 ――ああ、これは。 吉川の頭の片隅で、医師としての知識が囁いた。 ――催眠術に似ている。 ――いや、それ以上の何かだ。 抗おうとする。 足に力を込める。 でも、体が言うことを聞かない。「――っ」 床に、膝をついた。 畳の冷たさが膝を刺す。 その感触だけが、やけにはっきりしていた。 視界の端で、千鶴が倒れるのが見えた。 何も言わず、何も抵抗せず。 ただ静かに目を閉じて、横たわる。 ――千鶴さん……? 声にならない。 吉川の意識が、霞んでいく。 その時――声が聞こえた。「清音……どうして?」 梓の声だ。 震えている。 でも――はっきりしている。 吉川は必死に顔を上げた。 視界がぼやける中で、梓の姿が見える。 立っている。 まだ、立っている。 ――
診療所の白い天井がぼんやりと視界に映っていた。 薬草と消毒薬の匂いが鼻をくすぐる。廃屋の煤と湿気に満ちた空気とは違う、清潔で穏やかな匂い。 戸をくぐると、すぐに小さな土間があり、そこで靴を脱いで上がるようになっていた。以前もここに来たことがあるはずなのに、そのときは気が動転していて、ほとんど目に入らなかった。暗い廃屋から連れ出されたばかりの沙織には、その当たり前の所作だけで胸が震えた。自分たちはもう牢獄の中ではなく、人の暮らす場所に入ったのだ――そう思えたからだ。 上がり框を踏むと、そこは六畳ほどの待合室。壁際に古びた長椅子が二つ並び、低い机の上には色あせた雑誌や子供向けの絵本が積まれている。薬草と消毒薬の匂いが、煤と血の臭いに覆われていた鼻腔をじんわりと洗っていく。 正面の引き戸を開ければ診察室があり、木机と診療台が置かれ、窓際には乾燥させた薬草や薬瓶が整然と並んでいる。そのさらに奥には小さな倉庫が続き、薬品や器具がびっしりと詰め込まれているようだった。 待合室の脇からは細い廊下が伸びており、その奥に三台のベッドを並べた入院部屋がある。白布がかすかな灯りを反射し、静けさの中でひどく頼りなく浮かんで見えた。村人が長く寝泊まりできるように整えられた部屋なのだろうが、今はひどく心細く映る。 さらに廊下を進むと、吉川先生の住まいに続くらしい。居間兼寝室があり、裏口からは薬草畑に出られると聞いた。沙織はまだ足を踏み入れたことはなかったが、そこに灯る生活の匂いを想像して、胸の奥にかすかな温もりを覚えた。◆ 診療室で横になっている俊夫を見ながら、沙織は毛布に包まれた陽一を抱きしめ、ようやく息をついた。 腕の中で、息子の小さな体温が規則正しく脈打っている。その温もりを確かめるたび、胸の奥に安堵が広がる。 ――助かった。本当に、助かったのね。 吉川先生は手際よく俊夫の処置を続けていた。包帯を巻き直し、脈を取り、体温を確かめる。その一つ一つの動作が、まるで儀式のように丁寧で確実だった。「呼吸は安定しています。今は安静にさせましょう」 吉川先生の声は落ち着いていて、それだけで心が落ち着いた。 俊夫は診療台に横たわり、荒い息を繰り返している。顔色は悪く、汗が額を濡らしているが、それでも生きている。生きているだけで、今はそれでいい。「沙織さん、とりあえ
湿った畳の冷たさが、薄い部屋着越しに沙織の肌へ這い上がってくる。背に抱えた陽一の体温だけが、かろうじて自分を人間の世界につなぎ止めていた。 俊夫は柱に縛り付けられたまま、荒い息を吐いている。時折、喉の奥で呻くような声をあげ、そのたびに縄がぎしりと鳴った。目の焦点は合っていない。夫はもう自分を見ていない。沙織はその現実から目を逸らした。 固く結ばれた縄を、何度も解こうとしたが女の力では歯が立たず、沙織は陽一を抱きしめながら、俊夫の傍らで震えていることしかできなかった。 暗い。煤の匂いと湿気が重なり、息をするたび胸が痛む。窓も戸も閉ざされ、ここが牢であることを嫌というほど思い知らされる。 廃屋の外に、時折人の気配がする。きっと見張られているのだろう。気配がなくなる時もあるとはいえ、俊夫を置いてここから出ることも出来ない。 ――逃げられない。 頭の奥で、その言葉が何度も反響した。 陽一が小さく身じろぎした。泣き声を必死で抑えているのか、喉がかすかに震えている。母親の腕に縋りながら、熱い吐息が頬にかかる。その健気さが、沙織の胸を余計に締めつけた。 夜は深く、聞こえてくるのは獣の鳴き声と、夜の虫の音。沙織は震えながら耳を澄ます。 微かに人の声――外に気配があった。 砂利を踏む音ではない。見張りの者の動きとも違う。もっと遠く、けれど確かに人の会話。息を呑む。耳を澄ませる。心臓が跳ねる。 ……誰か。誰かが近づいてくる。 頭の奥で、必死に理性が制止する。呼んではならない。ここは禁域。外から来る者もまた、同じように飲み込まれてしまう。そう分かっているのに――。 陽一が震えた。小さな手が母の襟を掴み、おかあさん……とかすれた声を漏らす。その声が、理性の最後の糸を断ち切った。「……助けてっ!」 叫びは思ったより大きく、喉を焼くように迸った。闇に押し込められていた空気が一気に揺れ、戸の隙間に向かって迸る。 その瞬間、沙織は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。希望と恐怖がないまぜになり、体の芯まで震えが走る。 叫んだ声がまだ胸に残っているうちに、戸口の向こうで何かが動いた。 息を呑む。畳をかすかに震わせる足音。外の空気がかすかに流れ込み、湿りきった部屋に違う匂いが混じる。 次の瞬間、障子の隙間から白い光が差し込んだ。 小さな四角の中に、懐中電灯の鋭い
吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。 俊夫はよろめきながらも、歩き出す。「せ、先生? なんで? 俺は……?」「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」 朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。「梓さんは、沙織さんたちを」「はい!」 梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」 梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。 沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。「……どうして……どうしてこんなことを……」「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」 沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。「おかあさん……」 小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。「……おとうさん、だいじょうぶ?」 その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」 沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。 その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。 吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」 梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。 庄司の声が夜に低く響いた。「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」 そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込
洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。「この先にある古井戸、少し気になりますね」「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」 清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。「調べてみたくもありますが……」 吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。「助けてっ!」 その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。 梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。「先生、今のは!?」「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」 二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。 古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。 梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。 障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。「落ち着いてください。様子を伺います」 吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。 吉川が低く囁いた。「梓さん、静かに。まずは状況を確かめな
板を写し終えたときだった。 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。 ――ふう、ふう……。 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。「……聞こえますか」「はい」 吉川の声は押し殺されていた。 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。 ――「もう二度と戻らない」 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。「先生……ここから先は……」 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」 梓は頭を振った。「だめです……誰かが、見ている……」 その瞬間、背後から空気が揺れた。 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。 ――覗かれている。 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。 いや、肉のように、ではない。 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。「下がってください!」 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。「……これが……にくゑ……」 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ
ピュールィーーーー! 山鳥の声が、梓の胸の奥を揺さぶる。東京ではもう失われていた感覚。 村へ来て数日。今日から梓は学校に通うことになる。小さな分校で、生徒は三十人ほど。小学生から高校生までが一緒の校舎で学ぶのだそうだ。 舗装道路はところどころひびが入っていて、すきまから雑草が顔をのぞかせている。朝つゆをまとった草が足首に触れるたび、ひやりと冷たさが走る。スカートのすそが濡れて重くなる。山の鳥の声は澄み切っていて、東京で聞いたどんな音よりも大きく、まっすぐ耳に飛びこんでくる。 通学路の途中に、小さな平屋を改装した建物がある。「吉川診療所」と書かれた看板が、少し傾いて掛かっていた。その
清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。 たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。 それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」 清音は柔らかく言葉を紡ぐ。 玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。 湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンシ
胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。 村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。 門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」 そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。 一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配が
バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。「おや、新しい人じゃな」 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲